古文書で発見できること
~自分のこと発見にチャレンジ~
歴史は今につながっている、自分につながっていることを確かめよう!
歴史(れきし)があって今がある。それは町の名前や地域(ちいき)、そして自分との関わりから見えてくることがあるよ。
ボクの町と同じお相撲(すもう)さんだ 「正代(しょうだい)」
同じ町の出身ならばわかるけど、全然違(ちが)うところなんだよな~。

ボクはお相撲(すもう)が好きで、正代関(しょうだいぜき)のファン。ボクの町も同じ正代。でも正代関はボクの町の人じゃない、熊本出身の人だ。なにか関係があるんだろうか・・・

ということでその名前の由来を探検(たんけん)してみた。
ボクの町は、埼玉県東松山市にある「正代(しょうだい)」という町なんだ。ここには「小代」という人がいたらしいんだ。字は違(ちが)うけど、読み方は一緒(いっしょ)だよ。
このことは、学校で先生に教えてもらったんだけど、実際(じっさい)に行ってみて確(たし)かめてみたかったんで、お父さんと一緒(いっしょ)にでかけてみたんだ。

行く前に事前にインターネットで調べて、いろいろ歩いて回ってみることにするよ。
その一番のヒントは、この町にある「青蓮寺(しょうれんじ)」というところやその付近(ふきん)にあるらしい。

歩いて行くと・・・
ほら! これが「正代」の証拠(しょうこ)だ。

ホントに「正代」っていう町なんだ。
住所を示(しめ)す表札とかじゃなくても、こういう歩道橋や町の中の看板(かんばん)にもちゃんと書いてある。

う~ん、でも、これが正代っていう人の家でもなさそうだし、どんなつながりがあるのかな。。。
ネットで調べると、どうやら町の名前が先にあって、そこに住んだ人が「正代」っていう苗字(みょうじ)を名乗ったらしい。
でも「正代」は、珍(めずら)しい苗字。まさか九州の熊本につながっているとは思えないんだけど。。。

最大のヒントのお寺に到着(とうちゃく)!
青蓮寺(しょうれんじ)というお寺だ。ここに最大のヒントがあるという。

青蓮寺(しょうれんじ)に到着!
まずはお参りをしよう。

境内(けいだい)を見ると、、、これだ!青みがかった石の板に書かれた石碑(せきひ)で、板碑(いたび)とか板石塔婆(いたいしとうば)言われているものなんだって。

「小代重俊(しょうだい しげとし)供養塔(くようとう)」

うん? これ?? あれ??? 「小代」?? 字が違う。。。「正代」じゃないの?
その横に説明書きがある。。。弘安(こうあん)四年、1281年って、ものすごく古いんだ!!
なるほど!! 小代という家がこのあたりを取り仕切っていたんだな。その四代目重俊の仁徳(じんとく)を慕(した)って、また祖先(そせん)の供養(くよう)のため、一族関係者が力を合わせてこの板碑を建立したと。
なになに??
「重俊は宝治(ほうじ)元年(一二四七)鎌倉(かまくら)幕府(ばくふ)から肥後国(ひごのくに)野原荘(のはらのしょう)(現(げん)熊本県荒尾(あらお)市)の地頭職(じとうしょく)に任(にん)ぜられています。」
だって?
「小代氏一族は野原荘へと移(うつ)り住んでいきます。その後、三百数十年にわたりその地で勢力(せいりょく)を誇(ほこ)ったそうです。小代氏の菩提寺(ぼだいじ)となっている荒尾市の浄業寺(じょうごうじ)には、一族の供養塔群が残されています。」

・・・熊本に引っ越(こ)したんだね。

そこで、ご住職(じゅうしょく)さんにも話を聞いたよ。

もともとこのあたりの土地の名前が「小代」で、ここに平安時代(じだい)に来た武士(ぶし)が、この町の名前「小代」という苗字(みょうじ)を名乗るようになったんだって。
やがて、この武士が源頼朝(みなもと の よりとも)からのご褒美(ほうび)として、熊本の土地を与(あた)えられて一族の一部が熊本に引っ越(こ)していったんだそうだ。
熊本でさらに繫栄(はんえい)して、小代家の菩提寺(ぼだいじ)もできた。そのお寺にはもっとたくさんの板碑があるんだって。

「小代」と「正代」文字が違うのは、おそらく良い字に変えたんだろうということ。今、正代(小代)さんは熊本県に最も多いんだって。お相撲さんの「正代関」は本名で、この小代家の子孫なんだって!!

よし!! ならば、熊本に行かなければ!! 行こう!! 小代(正代)を探(さが)しに!!

おっと、その前に、近くに小代家に関係するものがまだあるみたいだから、行ってみよう。

ここにも小代家一族の跡があるよ。

この御霊(ごりょう)神社は、平安時代末期の武将(ぶしょう)で源義平(みなもと の よしひら)が、住んでいたと言われているところで、そのあと、家臣だった小代遠弘(しょうだい とおひろ)が住み、源義平を祀(まつ)った神社なんだって。
源義平という人は、有名な源頼朝の異(い)母兄にあたる人なんだ。
そして、さっきのお寺に戻ってみると、お寺の敷地(しきち)には小代氏館跡(しょうだいやかたあと)というのがあることもわかった。今では何もないけど、お寺とともにここに小代家一族が居(い)たということだ。

ということで、まとめると、ここの場所が小代という名の場所で、このあたりをおさめていた武士(ぶし)軍団(ぐんだん)が、小代を名乗るようになり、時代と共に小代から正代に文字が変わった。小代家が熊本に転勤(てんきん)になったので、現在(げんざい)は熊本に小代家の本拠地(ほんきょち)があるってことなんだな。

う~ん、いろいろな人が居て、その場所から人の名前がついたり、その地域(ちいき)が守られていたりして、歴史っておもしろいな~。
もっと自分の住んでいるところも調べてみたいな、自分とのつながりもあるかもしれないし。
こうなったら、熊本にも行ってこなくちゃ!

町名の字が違(ちが)う!
「薬園台(やくえんだい)と薬円台(やくえんだい)」
ずっと前から気になってた。なんで1か所だけ「薬園台1丁目」???

町内会の地図を見ていると住んでいる町のようすがわかるよね。
へー、こことここが道でつながってるんだ・・・とか。この子の家は別の子の家のすぐ裏(うら)なんだ・・・とか。
もちろん自分の家をまず探(さが)すけど。

それで、ずっと不思議だったのは、うちは「薬円台1丁目」、隣の町会は「薬園台1丁目」。しかもここだけちょっとしかない町会で何かありそうな感じがしてたんだ。
そして、ほかにも場所によって、この2種類の漢字が混(ま)ざってるんだ。
すると、ちょうど、地域(ちいき)のケーブルテレビでこのあたりのことをやってたんだって、おばあちゃんが教えてくれた。
町名の字よりもそっちの方がもっと興味(きょうみ)が出てきちゃったので、一緒(いっしょ)にそれらを調べてみようと思った。

郷土(きょうど)資料館(しりょうかん)で聞けばたいていのことがわかる
あるのは知ってたけど、入ったのは初めてだ、郷土資料館。

どこに行っていいかもわからない、そういう時は市役所だよっておばあちゃんが言う。でも市役所は遠いんだよな。
そしたら、歩いて行けるところに「郷土資料館」があるって教えてくれた。よし、行ってみよう。
行って質問(しつもん)すると、ものすごくくわしく、わかりやすく教えてくれたんだ。
学芸員さんなのかな?
古いことが載(の)っている見たことのないような本も見せてくれて、これはおもしろそうだよ。
そして、ここに行ってみるといいと教えてもらったから、そこに行ってみよう。

ここのすぐ近くにある高校では、園芸科があって薬草園を持ってるだって。7~8年前から始めたことらしい。

あっ!町名の字が違(ちが)うことについては、すぐに答えが出てしまった!
これは、1973年に新住所表記に変わったらしいんだけど、今の「薬園台」町会だけはその場所の整備(せいび)がまだされなくて、そのまま以前の文字を使っているんだって。だから特に深い意味があるわけではないらしい。よく質問されることなんだって。今後何年後かに「薬円台」という表記になるかもしれないよ、って言ってた。

そんなことより、もっとおもしろいことを聞いたから、探検(たんけん)してくる!

こんなところにあったの? 気づいてない~
こういう説明書きがあっても、ふだん気にもとめていなかったな~

まず行ったのが公民館だ。なんだ、よく行く児童ホームじゃないか・・・。
その入り口に説明が書かれているって? あれ? これ?? 今まで何度も見てるはずなのに気にしてなかった!
ここに説明が書いてあるんだね。もっとちゃんと見ておけばよかったな。

で、さっきの資料館の人の話と合わせると、ちょうど今から300年前、江戸(えど)時代8代将軍(しょうぐん)徳川吉宗(とくがわ よしむね)が、小石川養生所の薬草を栽培(さいばい)する園をこの地で作らせたっていうこと。約30万坪(つぼ)の広い畑を作って、そこで薬のもとになる薬草を育てようとしたんだ。
でも江戸幕府(ばくふ)が管理していた場所ではなく、ここで薬草を作るよう命じられたおかかえのお医者様 丹羽正伯(にわ しょうはく)」と同行した日本橋の薬屋さん 桐山太右衛門(きりやま たうえもん)が、それぞれ15万坪ずつ、この近くの農民などと協力し開拓して栽培。そのうちの数坪は自分たち用に自由に食べるための穀物や野菜を栽培していいよって言われていたんだって。

それは幕府の記録に事細かに残されている。
ところが、本人たちの記録がまったくない!! 残っていない!! なんてことだ!!!

ということで、どのあたりがその薬草園だったのかもわからない、何を作っていたのかもわからない、他に誰が居たのかもわからない。。。。
え~、そんなことってあるんだ!

その後の研究では、おそらくは今の薬園台1丁目~6丁目がその薬草園ではないだろうか、特に貴重だった朝鮮人参も栽培していたのではないだろうかという予測が出来ているそうだ。サトウキビを栽培していたことは幕府の記録に残ってる。そして江戸末期には日光に移転してしまったとの記録もある。
残っているのは、丹羽正伯を祀った石碑(せきひ)。そして、薬草園から「薬園台地」、「薬園台」という地名になったということだけなんだ。

あれ? こんなところに歴史(れきし)的に重要なものが残っていたなんて!
なんか変だな~とか、不思議な名前だな~とか思ったら、調べてみようよ

この公民館の近所には「正伯(しょうはく)公園」という児童公園があるよ。え~、そうなんだ。なんでこの場所の名前の公園じゃないのか、なぜここだけ「正伯公園」なのかわからなかったよ。

いよいよ、丹羽正伯を祀(まつ)った石碑(せきひ)に行ってみよう。共同墓地(ぼち)の入口にあったよ。
古くて、コケもいっぱい生えてて、字はよく読めないけど、看板(かんばん)も立ってる。ここはお墓(はか)のところだから、怖(こわ)くて通らないから気づかなかったな~。
確(たし)かに薬園台の町の名前の元を作った人がここにいたんだ!

もう一つ教えてもらったので行ってみたのは、お豆腐(とうふ)屋さん。うん、何度もおつかいで買いに来てるから知ってるよ。実はこのお店、桐山太右衛門さんの子孫なんだって! うわ! すごい人だったんだ!! 店先に「桐山」って書いてある。

自分の町や近所のこと、意外に知らないでいるんだな~。「こういうところに生まれ育ったっていうことも何かの縁(えん)ですよ」っておばあちゃんも言ってたけど、確かにそうだよ。こんな身近なところに歴史があるなんて、知らなかったな~。

みんなも自分の町のこと、調べてごらんよ。
思わぬ発見があると思うよ。

どんなちっぽけなこと、ささいな物でも大丈夫(だいじょうぶ)。
こんな物がいったい何の手がかりになるんだろう、って物でもOK。
そこから、歴史(れきし)をたどることができる。
地域(ちいき)の歴史、家の歴史、キミの歴史・・・・・
たとえ古いものでなくても歴史は歴史だ。
新しい歴史の前には、その前の歴史がある。
どんなところにも歴史は必ずあるよ!
その歴史が今につながっていることを知ることができる。
そして、それを見つけた時、
その歴史はキミ自身につながっていることを確認(かくにん)
できるということなんだ。
さあ、どんな物からでもOK。
近くにあるもの、気になったもの、なんでもいいからまず見つけて、
調べてみよう!